近代的な、近代ヨーロッパ的な、当世風な総てのものが、いよいよ益々私の心から遠くなっていく。私に面白くないもの、気に入らないもの、我慢のしにくいものになっていく。
備忘録のようにして書きとめられた、これらの断片的な表白の中にも、所詮新しい思想や新しい感情と言われるようなのは一つもあるまい。私は私自身の考え方感じ方を、むしろあまりにも新しすぎるのだと思わぬことはない。しかし、世間からして、あまりにも古すぎるのだと言われることを、それほど気にしてもいないのである。
「民族のため」が一切の事物の価値を決定するのだとは、流石にもう大多数の一般群衆も信じなくなっている。
しかしながら、より新しき標準としての、理想としての「人類のため」が、これまでの「民族のため」なぞに比して、ただわずかに一歩を進めたものにすぎないことは、今日はたしてどれだけの人々から気づかれているだろうか?
私は決して厭人主義者ではない。のみならず、大体においては何物にもまして人類を愛してもおり、また愛さなければならぬと思ってもいる。
それにもかかわらず、人類のことごとくを皆、一様に愛することができない。そしてできないのを不自然だと思わない。なぜと言って、そのあるものに対しては、非常に自分に近く、自分の同類であると感ずるけれど、他のものに対しては、それほど自分に近く、自分の同類であると感ずることができないからである。
さらにまた、私達が人類の中のあるものより、ずっと好きな、ずっと愛すべき生き物を、人類以外に見出すというのは、実際においてあまり珍しくないところの私達の経験である。
例えば一方には、偽善者のほかなる何物でもないような宗教家、教育者なぞ、および偽善者たることの必要からさえ解放されてきている、鉄面皮を第一の武器にしている、あるいは政治家と称する、あるいは実業家と称する紳士的無頼漢、無頼漢的紳士などを――
他方には私達の掌の上から穀物を食べる足の紅い鳩、尾を振りながら私達のあとについてくる小狗、青々と浪打っている麦の上を、ほがらかに歌いながら舞いながら雲雀、いな、青々と浪打っている麦そのもの、その隣に一面の菜の花、蝶々、それよりも可愛い、勤勉な労働者の蜜蜂、蟻なぞを――
これらの二種類のものを対照して見るとき、どちらが私達の心にまでより近く、より親しいものであるか? どちらがより多く「異邦人」として感じられ、どちらがより多く「同類」として、同じ血の、同じ神経の通っている生き物として、同じ悲しみを悲しみ、同じ悦びを悦ぶ友達同士として意識されるか?
人類の中にも、あれほど厭わしき生き物があり、人類の他にもあれほど愛すべき生き物があるとしたら、人類という同種族感情、同類意識はもはや、それほど重要視さるべきものではない。
人類なるがゆえに、人類ならざるがゆえに、一方が常に他方を犠牲にしていいというのは、そうした意味をまで込めての「人類のため」は、もはや私達の感情と理性とのいずれからも承認されないところのものである。
あまりに重すぎる荷車につながれて、夏の日盛りなぞに、険しい坂道の中程に立ちすくんでいる駄馬を見たまえ。彼は私達と同じ汗を流し、同じ吐息をつき、またときとしては全く同じように泣いているではないか?
私はあの馬方をも愛すべき男であると思う。しかし、彼より以上に苦しんでいるゆえに、駄馬はいっそう賢く、いっそう人間らしくさえ見えるではないか? いな、いっそう賢く、いっそう人間らしくさえ見える故に私達は折々あの馬方を幾分憎むべき男のようにさえ思うではないか?
諸君は、諸君のちょっとした好奇心から、あるいは全くの偶然なる機会から、その手の中に小鳥を握ってみたことはないか?
そのとき、可憐なる彼女は、その小さな体全体が心臓ででもあったかのごとく、本当に命懸けな動悸を打たせながら、諸君及び諸君の姉妹らの有 っているのとちょうど同じぬくもりを諸君の掌に感じさせなかったか?
そして諸君はまた、次のように口の中で言いながら、再び彼女を自由にしてやらなかったか?
「何も心配することはありませんよ、お嬢さん! 貴女のような可愛い人に対して、誰が害を加えるでしょう!」
神が人類を幸福に生きさせるために、人類以外の総ての生き物を造ったという、虫のいい伝説を信じているヨーロッパ人らも、動物愛護を言わないではない。しかし彼らのそれを言う理由はこうである――
特に子供らが動物を虐待したり、動物の虐待されるのを見たりすることは、彼らの心情を荒々しく、むごたらしいものにする。そしてその結果は、互いに愛し合ってゆかねばならぬ人間の道徳的向上に障害とならざるを得ないというのである。
依然として、これは「人間のため」ではないか? 人類以外の総ての生き物を手段とする、人類中心の考えではないか?
神が人類を幸福に生きさせるために,人類以外の総ての生き物を造ったという伝説に、数十世紀の間養われてきたヨーロッパ人と、幸いにして今なお輪廻観念の全くなくならないでいる私達東洋人とを、この場合同一に考えることは許されない。
私は仏教に説くところのごとく(あるいはそれ以上にジャイナ教に説く所のごとく)、輪廻をそのままに信じてもいいような心持ちにさえなっているのだが、それはこの場合の問題にすることを控えよう。
ともあれ、総ての生き物は生き物として、平等にその生命を愛惜されなければならぬ。何故と言って、それらの生命はことごとく皆、一つの大きな生命につながっているのだから。その一つの大きな生命の部分部分にすぎないのだから。本当の生命はただ一つしかないのだから。いな、生命は一つとも一つ以上とも数えることのできない、単に「生命」と言うよりほかに言いようのないものだから。
無数のより小さな生命から構成されているという意味において、その内にある一切の物が生きているという意味において、最後に全体として、最も大なる、恐らくは永久的なる生き物であるという意味において、この宇宙は明白に生命である。生命の生命である。
生命としての宇宙は、ほとんど死のごとく、無限に深い眠りの底から、次第次第に浅い眠りのほうへ浮かび上がり、ともかくも現在のところまでやってきた。夢うつつの間にあるとも、半ば目覚めているとも、言えば言えるであろう。そしてこれからいよいよはっきりした覚醒のほうへ浮かんでいき、ついには神の如き、無限に明るい意識状態にまで到達することであろう。
宇宙は、「生命」そのものは、全体としての生物は、間断なく、限りなく進化していく。そこには単なる小部分としての退化だけがある。より多く進化せんがための、より少なき退化があるにすぎない。
しかしながら、無限から無限への生命の大きな流れに、特にある区域を限って見るならば、その経過は常に必ずしも進化的であるとも限らないであろう。
例えば今、いわゆる原始動物(私どもは、原始という言葉をあんな場合に用いたくないようにも思うのだが)アメーバーから人類までの経過が、大体において進化の歴史であるとは、承認してもよい。
しかしながら、人類がひとたび人類になり得てから今日までの経過は、大体においてすらも、はたして進化であったか? それとも退化であったか?
少なくとも、有史以来に範囲を限って言えば、人類が単により複雑な、より手の込んだ生き方をするようになったというだけでなく、道徳的にも美的にも、本当により立派なもののほうへ、段々と進化してきたのであるか、それとも反対であるかは問題である。そうだ、いかに控えめに言っても問題である。
あとからあとから発掘され、発見される古代の諸事物を見るたびごとに、古代人がその中から少数の巨人的天才(後代に至ってはそれに似通ったものをさえ見られないような)を産出したばかりでなく、彼ら全体としてまたじつにすばらしい生活と仕事をしているに、つくづく私達は感嘆し敬服する。
進化か退化かの問題を具体化するためには、人類が上前をはねること、利子を取ることを覚え、機械というものを発明したことを考えてみるのは必要なことだ。
特に、人類自身がその手足の延長のつもりで作り出した機械という怪物――あの怪物がさかしまに、その手足の延長として人類を使役している近代人の憫笑すべき「文明」生活のありがたみを、解剖分析してみるのは必要なことだ。
幾十倍幾百倍の生産力を加えながら、人類の大多数は住むに家がなく、まとうに衣服がなく、食うにパンすらもない。しかもその不可思議なる生産力の正体をつきとめてみようともせず、その正体がいかなる吸血鬼であるかをつきとめても、さてそれをどうすることもできないように、愚鈍な懦弱 な、これでも人類の子孫かと慨かれるような現代の人類を考えてみるがよい。
そして、人類は決して進化をやめていないし、退化への、頽敗への、破滅への道を急いではいないとああ、はたして誰が言い得るか?
いっそのこと、一息に破滅してしまえと、私の口は極度の興奮に震えながら、反語的に激しく絶叫するかも分からない。
しかし、私自身もその一人として、心の底の奥底に、どうして人類の絶滅を痛快がることがあろうぞ!
それにしても明白に明白に下り坂に向かっている人類が、再びその勢いを盛り返してくることができるやいなや、今ひとたび進化的経過を取るようになり得るやいなや、それはただ神だけが知っている。しかり「人類のため」に人類以外の総ての生き物を造ったエホバ神より他なる、何らかの新しき神だけが知っている。
ともあれ、人類の絶滅は、全体としての生物の運命にとって、生物そのものの大きな流れにとって、それほど問題ではないかもしれない。むしろ、全くなんでもないほどの小事件かもしれない。そして人類よりもいっそう人類らしき、より高級な、すばらしく立派な種族が、直に、または適当な時期において、補充的に造り出されるかもしれない。
人類の絶滅が直に宇宙の解体ででもあるかのように、あるいは宇宙の存在を無意義にするものででもあるかのように考え、またそれゆえに、そうやすやすとそんなことがあってはたまらないというふうに考えるのは、全く救うべからざる人類の虫のよさ加減である!
だが、ある見地からすれば、人類が現在向かっているような絶滅は憂うべきものであるけれど、絶滅の性質次第では、必ずしも気にするに及ばないのである。
固体も種族も、その託せられたる使命を十分に果たした後であるならば、死んでいくのに何の悲しむべきことがあろうぞ!
また彼らが、その託せられたる使命を十分に果たし得ることのために死ぬのであれば、彼らはその死によってこそ最も善く生きたのではないか! 永遠の生命を生きたのではないか!
近代人と称する愚者らの賢げに言っているところを聞けば、生きている者は、単に生きることのためにのみ生きているようである。
だから彼らにとっては、少しでも余計に生きていれば、それだけ幸福で、そして有意義のようである。
彼らの大なる迷信と第一信条――「種族の保存」のいかに笑うべきものであるかを見よ。
古来、仕事らしい仕事をした人間は、いずれも皆、その仕事のために生き、その仕事のために死んでいると言っていい。
生き甲斐のあるような生き方をした人間は、そのことのために死期を早めているのみならず、多くの場合、あとに子孫を残していない。残そうとさえしていない。そして、それでいいのだ。
天才者とか偉大人とかいわれる人達には、まれに子孫があっても、それは大抵格別の人物でない、むしろ平々凡々以下であるのを常とする。そして、それはまた、しかたのないことではなかったか? なぜといって、その天才者や偉大人達は、子孫達が手伝ったり補足したりする余地のないほどに、その一代の間に一通りの事業を完成してしまったのだから。かなり生き甲斐のある生き方を、思い切り生きてしまったのだから。
レオ・トルストイも言っているごとく、人が子供を造らねばならないのは、自分のし残した仕事を子供にやらせるために他ならない。
気長に、あるいはいい加減な熱情で理想の実現を志している「近代的」な理想家達よ、君達は何をおいても、君達のあとに子供を残しておくことを忘れるな! そしてその子供が幸いに君達ほど不精者でないように祈願しておくことを忘れるな!
これまでもたびたび言ったことだが、一切の愛は性的愛から、性欲から、陰陽の対立和合から生まれる。(ここいらがやはり、私の考え方感じ方の当世風でない点である)。
これを逆に言えば、性欲や性的愛から骨肉近親への愛も生まれ、隣人への愛も生まれ、最高のものとしての、一切衆生への、即ち神への愛も生まれてくる。
性欲や性的愛が根源であるゆえに無視しがたいと言い、無視してはならぬと言うのは正しい。それゆえに最も尊いものであるというような「近代的」謬見 に堕してはならぬ。
一切衆生への愛、即ち神への、絶対者への愛は、最終の派生物であって、同時に私達の生活の最高標的であることを知らなければならぬ。
差別の愛は出発であって、無差別の愛は帰着である。
差別の愛に対してすら資格のないものが、どうして無差別の愛を知ることが、体験することができようぞ!
「一切」を愛し、「神」を愛するに至った者も、妻子らを愛しなくなったのではない。さまざまな愛を、大きな一つの愛の中へ融かし込んでしまったのだ。百川の水が大海に収められてしまって跡なきがごとく。
夫と妻との間においてさえも、性的愛が低下するのでなくして、むしろ反対に向上していった末、単なる性的愛以上の愛が、最もよき兄と妹との間に、最も理解し合った友人と友人との間に、最も堅く誓い合った戦友と戦友との間に見るごとき愛が生じてくるにつれて、彼らはだんだんと相互の性的交渉を超越していくようになる。
彼らの中のいずれかが、またはいずれもが「一切」を愛し、「神」を愛するほうへ、めざましく成長してくるとき、彼らは自らにして、必然に貞潔の生活へ入っていかねばならぬであろう。
マタイ伝第十九章には、「近代的」クリスチャンがその心の目を閉じ耳をふさぎながら読み過ぎるところの文句がある。曰く――
「この言葉は人皆受け容るること能わじ。ただ天賦ある者のみこれをなし得べし。それ母の胎よりして生まれつきたる寺人あり。また人にせられたる寺人あり。これを受け容るることを得る者は受け容るべし」と。
使徒パウロもコリント前書第七章において言っている――
「我は総て人々が我がごとくにせんことを願う。されど人各々神より己の賜物を受けたり。これはこのごとく、彼は彼のごとし。我いまだ婚姻せざる者及びやもめに言わん、もし我ごとくしてあらば彼らに善なりき。もし自ら制える能わずば、婚姻するもよし。そは婚姻するは胸の燃ゆるよりもまさればなり」と。
彼はまた言っている――
「汝ら我に書き送りしことについては、男の女に触れざるを善しとす。されど淫行を免るるために人各々その妻を持ち、女もその夫を持つべし」と。
性、結婚、超結婚等についてのトルストイの意見は、彼自らの公言しているごとく、イエスによって暗示され、パウロによって細説された、あの正しい意見をそのままのものである。
私もまたあえて公言する――私の性、結婚、超結婚等についての意見は、大体においてトルストイらの意見と同一のものであるということを(ここいらは、特に「近代的」ならぬ印象を与えることであろう。)
イエスや、パウロや、フランシスのような貞潔な生活を送る人達が、だんだんと数多くなっていくならば、それだけ人類という種族は「種族の保存」を危うくされるであろう。そして、人類のことごとくが皆貞潔の生活を送るようになった暁を想像すれば、それは余りにも明白な人類の絶滅である。
だが、人類にしてもし、それほどの完成までに到達してしまったのであれば、それは人類にとって何という悦び、何というすばらしい光栄であろう。それこそ人類が人類全体として、永遠不朽の生命に入ったものと言うべきではないか!
貞潔の生活は「近代的」な思想家達が言うごとく、不自然なものであるとばかりは言われない。
それは、ある人間にとって十分不自然であり得る。同時に他の人間にとっていささかも不自然であり得ない。
同一の人間にあっても、ある時期までは不自然であった貞潔の生活が、他の時期に入ってからは極めて自然なものになることもあるだろう。
植物がその茎や幹において、遺憾なくその植物らしいところを発揮し得たとき、葉はもうどんな葉であってもかまわないように見えるのではないか? 花は咲いても咲かなくとも、少しも心残りがないように見えるのではないか?
咲きすぎるくらいに、美しすぎるくらいに、思い切り美しい花を咲かせきった草や木が、どんなに小さな実を結ぼうと、それすら結ばなかろうとも、私達は決して怪しまないではないか? あえてとがめようとしないではないか?
フリードリッヒ・ニーチェは言う。「結婚した哲学者というものを想像するのは、一つのユーモアである」と。
この場合の哲学者というのは、いかなるもののいいであるか?
パウロからして「命ずるにあらず、許すなり」と刻印を打たれた結婚に、今一つ痛快な但し書きのついていることを見のがしてはならぬ。曰く、「しばらく祈りのために別るるは善し」と。
しばしば祈りをなさんとする者は、しばしばその妻から、その夫から別れねばならないではないか?
長く祈りにおろうとする者は、長く別れておらねばならないではないか?
そして一生を常に祈りに捧げようとする者が、どうしてその妻と、あるいはその夫とともにあることができようぞ!
妻の夫に、夫の妻に対する愛、親の子に、子の親に対する愛は、それが愛である限りにおいて尊く美しい。
だが、それよりもはるかに勝って尊く美しいのは、「一切の衆生」に対する、「神」に対する愛である。
のみならず、夫婦の愛、親子の愛などが尊く美しいのは、最高愛のほうへ少しずつでも引き上げていくような要素を、その内に有しているからである。
そうした崇高な要素を欠いていそうな男女間の愛、骨肉間の愛が、尊く美しいものであるよりも、むしろ賤しく醜いものであることを諸君は理解してくれるだろうか? それとも理解してくれないだろうか?
釈迦牟尼らはその妻子を捨て、その家を出て道を求めた。
彼らがかくしてまでも道を求めないではいられなかった所以 を思いみよ。あるいはその妻子を愛する心においてすらも、常人の思い及ばざるほどの深いものを持っていたゆえに、常人の安らかにしているところに、そのごとく安らかにしていることができなかったのであろうと、こう見るのは、はなはだしく不自然な、無理な、でたらめな想像であろうか?
彼らが最高の平等愛に到達した後の、その妻子らに対する愛を思いみよ。あるいは、出家の前に持っていたよりいっそう純粋な、いっそう清高な愛をもってすらも、その妻子らおよび妻子らの面影に対していなかっただろうか?
私は近ごろ、釈迦牟尼とその子ラゴラとの関係を、不確実なさまざまな伝説の中に手探りしながら、しみじみと右のごときことを思ったのである。
宗教も特に仏教にあっては、出家求道が宗教生活――それの予備的なものは別として――における第一条件でなければならぬ。
けれども、そのことのゆえに宗教も特に仏教が、苦行を勧めたり、強いたりするものであると理解すべきでない。
釈迦牟尼のごときは、その言説と実行とのいずれにおいても、明白に放逸を斥け、同じく明白に苦行を斥けている。
苦行にもあらず、放逸にもあらざる、いわゆる中道の生活は、生命をつなぐにかろうじて足りるほどの生活である。詳しくは、心静かに四諦を観ずるに適当して、簡素なる、けれども肉体を苦悩するところなき生活のいいである。はなはだしく足らざるところなき、されどいささかも過ぐるところなき生活のいいである。
かくのごとき生活を志して、苦行にも墜ちず、放逸にも流されざるは、決して容易のことではない。
のみならず、かくのごとき生活を生き、かつ生きさせたがゆえに、釈迦牟尼のごときはしばしば安逸をむさぼる輩の一人として、別方向にあったところの当時の求道者達からして非難されたという。ナザレのイエスもまた、苦行者のそれと異なれる生活をしていたゆえに、しばしば世上の楽しみに耽る者としての誹りを受けたように見える。
釈迦牟尼やイエスの生活は、はなはだしく足らざるところなき、けれどもまたいささかの過ぐるところなき生活を理想としたものとして、所詮エピクウル派のいわゆる享楽生活の最も純粋なものから、あまり遠くなかったのではなかろうか? 同時にまた、ストイイク派のいわゆる克己生活の最もほどよきものと、ほとんど選ぶところがなかったのではなかろうか?
そして今、またしてもしみじみ考えさせられるではないか?――本当に正しい生活は、享楽でもあり克己でもあるような、もしくは享楽でもなく克己でもないような、いわゆる中道の生活であるということを!
底本:生田長江『超近代派宣言』(至上社)
大正14年12月18日発行
旧字旧仮名を新字新仮名に改めました。
送り仮名を現代ふうに改めました。
難読漢字を仮名に改めるか、または読み仮名をふるかしました。

